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何者でもない人ではいけないのか
ブログを書くようになってからず~っと考える機会があったことですが、私は何者でもない私でいいのか?
ごく普通に学校に通って、ごく普通に企業に就職して、ごく普通に家庭を持ち、そして今。
これまで何者かであったことってほぼないですね。
この『何者』については、他の人があまり経験したことないことを経験している、他の人と比べた時に何かのセンスが際立っている、そんな周りの人間と比較した時にある特定の領域で際立った何かを持っていることがいわゆる『何者かである』ということであって、周りと比較して特に何かに精通している、特別な能力を持っていなければ『何者である』というのはなかなか難しい。
ミクロの視点で自分の周りにいる人と比較すると、その狭い範囲であれば自分は『何者である』と言えるような一人ひとりのキャラはあるのだろうけれども、これが日本全体、世界全体のマクロの視点で見るとそのミクロの世界では存在していた『何者』は、ほぼその他の人間と大きくは変わらないように見えてくる。
結局、自分のことを『何者である』と強く言えるのは、特定の分野で成功している人間が堂々と言えるくらいで、それ以外の人間にとって『何者である』と言うことに大きな差はない。
世の中の9割9分の人たちは大きな視点で見ると『何者でもない』人たち。
何者でもない自分でも人に誇りたい経験を持っている
では、何者でもないと思っている自分にも何か人に誇れるような経験を持っていないか。
持ってますよね。
例えば、世界的な企業に勤めている、優秀な大学を卒業している、スポーツの全国大会で優勝した、そんな経験もあれば、この部署の誰よりもオフィスソフトが使える、計算が早い、運動神経には自信がある・・・。
同じ『誇れること』でも、大小あるように感じるかもしれないけど、案外、その自分が『誇り』として感じていることは自分のプライドであったり、自分が得意としていることとして努力できる部分であったり、大きいこと、小さいこと関係なく自分の中の大切なものとしてその『誇り』は存在している。
ということは、その『誇り』としていることこそ自分が『何者である』ということに繋がってくるのではないか。
自分が普段生活している範囲でこの『誇り』を『何者である』ということで主張できるのであれば、その時点でその範囲の中では私は『何者かである』。
話をするのが得意なので、プレゼンさせたら自分の右に出るものはいない、パソコンを使わせたら自分よりできる人はいない、そう思える部分が自分の得意分野をさらに伸ばすためのエネルギーにもなるし、そこに費やす時間が増えればその能力はきっとさら伸ばしていくことができる。
『何者かでないといけない』と感じると無理に後付で自分の存在価値を作ろうとしてしまうが、これまで自分が経験してきたこと、ちょっとした自信があることが、自分が何者かであることと繋がっている。
SNSの世界で『何者でもない自分』を卑屈に感じない
そんなミクロの範囲で自信を持っていること、いわゆる『誇り』としていることがあっても、例えば、ツイッターやフェイスブックなどのSNSの世界を見てしまうとこの『誇り』は見事に小さいものに成り下がってしまうことが多い。
特定の範囲であれば自分が一番得意としていると感じていることも、世界的な視点で見るともっともっとすごい人間はいるし、自分よりはるかにできる人間はいくらでも存在していることに気付かされる。
実際に自分が感じたことなんだけど、そのくらい自分の『誇り』となっている部分はSNSの世界で見ると小さいものに感じられやすい。
そんな世界を垣間見ると、やっぱり自分は『何者でもない私』って感じてしまうのが大体の流れなんだけど、そこを過度に卑屈に感じないでもいいのかなって。
まず、SNSの世界自体が真実と嘘が入り乱れている世界で、その情報の取捨選択は自分次第である。
その情報が真実として、自分もそんな世界に飛び込みたいという意欲にすることができればよいが、良い面だけを発信している情報に踊らされることはない。
あくまで自分が生活している範囲では自分の『誇り』としている部分は輝いているわけだし、これからも輝きを失わないように伸ばしていくべき部分であることには変わりがないから。
そして、対抗心が湧き上がることで無理に『何者かである自分』を作り出さないでもいい。
無理に作り出した『何者』というキャラは結局長続きしない。
そもそも興味が無いことだから。
中には取り組み始めて興味を持てることもあるだろうけど、興味が無いことには反応しないのが人間ってやつでしょ。
そのできない自分、『何者にもなれない自分』に頭を悩ますなんてのはくだらないことで、必ず自分の中には『誇り』として感じている部分があるのだから、そこを大事にした方が絶対良い!
なぜなら、その『誇り』は自分の興味が高い部分だから、頑張れる意欲も出てくるし、人に発信したいという欲求にも変わってくる部分だと思うから。
『何者かである』必要はない
成りたい自分があって、そこに『何者かである自分』を作り出そうとすると、どうしても後付で興味がない自分を作り出すことになってしまうから、この際『何者かである』必要はない。
大きな視点で見ると自分の能力や経験したことは大したことないのかもしれないけれど、そこを突き詰めだすとオンリーワンであることをいつまでも追いかけ続けることになる。
この世には何十億人も存在していて、その中でもオンリーワンの経験や能力を持とうとする方が無理な話であって、大切にすべきは自分の中の『誇り』としている部分。
『誇り』としている部分には興味もあるし、自信や意欲を掻き立ててくれるものにもなる。
気づいた時にはそれが自分を『何者かである自分』にしてくれているだろうし、わざわざ自分が『何者か』を追いかける必要もない。
『何者かである』ことはそもそも自分が持っているもの。
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